葬儀や法事は何のためにするのかという話
いくつかの人の死とその葬儀について書こう。
今まで、親戚のおじさん、別居の祖父、ひいおばあちゃんのお葬式等に出たことはあったが皆幼い私からしたらあまり関わりのない人たちばかりだった。通夜や葬儀もお経を読む間黙っているのがそれはそれは大変な苦労で、よくいとこたちと笑わせあってじゃれたものだ。
もう少し大人になってからも、法事は面倒なことでしかなかった。
何のために毎年人を集めてこんな面倒なことするんだろう。葬儀だって、あんな長々とやることないじゃない。亡くなった人はもう死んでるんだから、何をしたってもうわからないよ。そう思ってた。
初めて悲しい葬儀を経験したのは同居してた祖父の時だった。早すぎも遅すぎもしない、急な病死だった。
亡くなってすぐ、家の中はとても忙しくなった。お線香を上げに来る人の対応をしたり、香典返しの準備、葬儀の手配、あと両親は死亡届けを出すとか預金の引き出しとかそれはもうてんやわんやだった。お茶出しと愛想笑いと亡くなった経緯の説明が上手になった。
通夜と葬儀は、ほとんど泣かなかった。祖母や父の表情にうるっときたくらい。出棺の時には涙が堪えられなくなったっけ。でもその程度の悲しさだった。
この時に思ったのは、祖父の死という家族にとってショックな出来事のすぐ後にとても忙しくなることで、気を紛らわせることができていたということだ。人もたくさん来るし、もちろん祖父が亡くなったことが話題の中心になる。ハイになったまま、死を受け入れる準備ができてゆくのだろう。
一般的な葬儀やその後の法事は、その過程で人の死や悲しみを受け入れてゆくためにあるのではないか。49日経って、1年、2年経って、その人の死を受け入れられていますか?悲しみを共有できましたか?と確認しながら死と向きあう。法事もそんな機会なんじゃないか。
(…ただ、祖母にとってはそんなことでは悲しみを受け入れられないくらいに大きな喪失体験だったらしく、その後も延々と祖父のことで頭をいっぱいにしていたようだった。)
それから、ひどく悲しみの色に染まった葬儀も経験した。恋人の死だった。
死因が痛ましい自死だったこともあり、少人数でひっそりと行われた。その場はどんより沈んでいて、親族は今にも泣き出しそうな顔をした人ばかり。お経の間もすすり泣く声と彼の母の泣き叫ぶ声が響いていた。こんなに笑いから程遠い葬儀は初めてだった。
火葬を終えても重たい空気は変わらず、涙を滲ませながら彼の思い出話をしていた。
私も、始終涙を堪えられなかった。
正直こんなんじゃ何も受け入れられなんかしない。
しかも、私は彼の家族ですらない。今後の法事に呼ばれることも、もしかしたらご家族と話せる機会もあるかないか分からない。こんなにも悲しいのに、血のつながった祖父の時よりずっとずっと大きな喪失感を、ひとりで背負わなくちゃいけないのだろうか。
法事に呼んでほしい、悲しみを共有したい。思い出話をしたい。自分の心と向き合えていますかと優しく問われる機会がほしい。素直にそう思った。
未だに、お経のありがたみだとか、お線香をあげる意味だとか仏教とかはよく分からない。だって死んでる人はもう死んでる。そこは変わらない。
だけど、通夜、葬儀やその後の法事で人と会って悲しみを共有したり、その人の死と向き合う機会を作ることは有意義なのだとよくわかった。
葬儀は生き残った人たちのためにあるんですね。
こう言うと当たり前かもしれないけど。
じいちゃんの最後のお見舞いに向かった車窓から。桜かな。
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