私のラボライフ〜夢だった研究を諦めるに至るまで〜 前編

いつも書き終えてからタイトルをつけるのですが、これはタイトルが先に決まりました(笑)
ラボとはラボラトリーの略で研究室のことです。

背景→元気だった学部時代→初めての不登校
前半はこんな流れです。ではいくよ




○背景

まずは私のいた世界のことを少し紹介しますね。

私には理系として、生物好きとしてやってきた背景があります。好奇心の塊 (鬼?) だった。何とは言いませんが某高校生向けのやつで広島旅行したり、研究所に自分で赴くほどには意識高い人でした。それだけ研究の世界が好きだったし、実力も伴ってると思っていた。早く研究室配属されて自分で実験したいな。大学入って1,2年間は少なくともこんな調子だったはずです。
すごいよね、キラキラしてた。今となってはそのかけらもないのだけれど。

当時から描いていたキャリアパスっていうのは、研究してゆくなら王道のコースで、大学院で修士号(24歳)、博士号を取り(27歳)、その後ポスドク、助教、准教授、教授と進んでいく。その間博士、ポスドク時代は学振という公募型の研究費+給料がもらえる仕組みがあって、狭き門ではあるのですがそれに通れば生活はできます。だいたい研究職って任期付きで3年や5年に一度は再び次の職場を探さなくてはなりません。定年まで雇ってもらえるという意味では准教授以上がひとつのゴールなんでしょうね。

現実的にはこんな風ですが、もちろん本音は研究したい、知りたいという思いがあった。生きているというのはどういう状態を指すのだろう。生命と非生命の境界線はどこにあるのか。あとは生き物がどうやって生きているのか、鮮明に想像できるようになりたい。細胞の中で起こっていることを映像化できるくらいに。いろいろ考えていました。




○学部時代

卒論を書くことになる研究室に顔を出し始めたのは大学3年生の頃。実験のお手伝いをしていました。
内容は詳しく書くとそれこそ簡単に身バレするので控えます(笑)
そのまま正式に配属になると、それはそれは嬉しかった。誰かのお手伝いじゃなくて、自分のテーマが与えられた。論文も苦手ながら読み出した。実験もどう進めるか先生と一緒に考えて作っていくことができる。自由だ!!!!

それから1年間はまったく水を得た魚のよう。毎日が楽しくて仕方なかった。実験もよくした。ラボ内の人間関係も良好だった。先輩方が大好きだったし、飲み会もかなりしてた。あとは徐々に出張が増えた。新幹線の乗り方を覚えました。
サークルも最後の年だから気が抜けなかったけど、できるだけ頑張ってた。ちなみに土日と平日の早朝はバイトもしてた。いろいろやりすぎてしまった。

忙しすぎた生活の末に、ついに精神に不調を来し始めた。
きっかけは、初めての公式の場での発表の準備と、部の演奏のプレッシャーだった。

なぜかわからない、涙が止まらない。動けない。食欲ない。笑えない。先のことが皆不安で、何より自分の感情がコントロールできなくて怖かった。練習に行けないかもしれない。そんなのありえない。精神科受診を決めたものの、そうなってしまった自分を認めたくなかった。
予約はひと月先だった。


発表も演奏会もなんとか乗り切ったものの調子を崩すことがあった。その時は抗不安薬を頓服でもらって、忙しさが過ぎていったことで一旦回復した。(ように思えた)



○苦難のM1時代 (夏まで)

M1になった。
気持ちを切り替えて、忙しくしすぎずやっていこうと思った。はずだったのだが、引っかかることがあった。

卒論について。

自分の口から発表してみてわかったのだが、色々実験はしたもののどれも積み重なっていない。筋立てが強引すぎる。…つまり、結局何も言えてないのではないか。曖昧なことしか言えない。
ひとつひとつの実験は成立していて、限定的ながらわかったこともある。が、限定的すぎる。しかもその実験だけでは本当はそんなに強い主張はできない。

自分のしてきたことに意味が見出せなくなった。しかも、先生と一緒にこれから計画していることにも、同じようなことに思える。定量しなくていいのか、どうやったらできるだろう。もう繰り返したくない。
私が堅実すぎ、理想が高すぎ、潔癖すぎだともいえる。私からしたらこれじゃ無意味同然なのに。

追い打ちをかけたのは私が抱えている問題意識を先生にわかってもらえなかったことだ。聞いても、直接の回答は返ってこなかった。きっと先生にも見えていなかったんじゃないかな。問題があることは承知でも、どうしたらいいか見えていなかったのではないか。

私に能力と気力があれば、自分の力で調べて、論文を読んで、自立することも可能だっただろう。それも結局叶わなかった。先行研究を漁るほどに、自分のしてきたことに新規性がなく、実験の計画も先行研究の流れから不自然に外れているように思えただけだった。
あとささみは英語が大嫌い。 絶  望 。

それでもこうしたら、と先生に提案したこともある。アイデアを出すの得意だし。でも難しいんだよねーとか、それよりこっちの方がとかで結局うまくいかなかった。


こうして先生と合わない中とある忙しい時に、先生に勧められたお酒を断りきれなくて飲みすぎて吐きながら帰って、もう無理だと思った。朝起きても身体が動かない。涙が止まらない。…研究に興味がもてない。自分のテーマじゃない、他人から与えられたテーマであって、私のやりたいことじゃない。やりたいことなんてもうない。つんだ。
ぱったりとラボに行けなくなった。連絡は来たけど、電話には出られず、メールは1週間してやっと返した。それがM1の夏だった。


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