人の死を、彼の不在を受け入れきれていないっぽい話

Nが亡くなってから、彼の不在を実感する瞬間が何度かに分かれてやってきた。というのも、人のアカウントはいくつかに分かれて認識されているらしい。

よくわかんないこと言いました(笑)


Twitterでの彼、LINEで会話する彼、電話口での彼、ふたりで会っているときの彼、物体としての彼、みんなの輪の中にいる彼...

全部同じ人間が向こう側にいる。だけど、それぞれ違う感覚で接している。


最初に訃報を受けて、まずLINEで会話する彼を失った。既読がつかない。いつもはそろそろ返事をくれている頃合いなのに。いつもと違う。

それからTwitter上での彼の更新が止まっていることが不自然に感じられる時期がきた。もともとのツイートの頻度からして、2日後くらいにはその不自然さに気づかずにはいられなくなった。...いない。

葬儀が終わった頃だろうか。ふと、電話をかけた。つながるはずのない番号へ。案の定繋がらなかった。それどころか解約されていた。だんだん彼の不在が色濃くなってくる。


会えないことはときどきあった。とはいえせいぜい2週間くらいまでしか会えない時間を経験してこなかった。今思うと幸せな話かも。忙しくても具合が悪くても予定がすれ違っていても、短時間でいいから、会ってた。それが、亡くなったのだから、1週間、2週間、ひと月経っても会えない。会いたいのに、もういない。そのことが重くのしかかってきたのはこのくらいの時期だろう。これが同居家族とかだったらもっと早い段階で実感するんだろうな。


生身の彼が生きていないことは葬儀で実感した。冷たかったし、骨になってた。あの細い手足も、きれいな目ももうない。


ひと月くらいして、はじめて共通の知り合いたちと会った。後輩の演奏会へ。毎年毎回欠かさずに来ていたNがいないとやはり、何か欠けた感じがする。

その時はNのことはあまり話さなかった。だから余計に、不在感が、喪失感がわたしひとりの中で湧き出していたような覚えがある。話しにくいだろうね。だけど腫れ物のように扱わてるのもなにか違う。上手く立ち回れなかった気がした。もしかしたら、寂しく思っている人は他にもいて、みんな話したいけど話し出せないんだとしたら余計に、もっとうまくやりたかったと思った。



今はもうLINEの画面を開いたり、繋がらない電話をかけたりすることはなくなった。

ただ、わたしの潜在意識?みたいなものがNの不在を承知していないように思える。

頭ではいないことを理解していても、わたしの思考の中のNはまだいる。生前のままの姿で頭のなかに棲みついている。


夢の中で、彼は必ず生きていて、楽しい時間を過ごす。だがふと冷静になって、彼はもういないのだと繰り返し自分に言い聞かせ、辛くなりながら目覚めることがある。いないことを承知してない自分がどこかにいるみたい。



街を歩いていると、歩く人の中にNの姿を見る。いないのに。

奏者を数えていて一人多く指を折っている自分がいる。いないのに。

良いことがあったらNに教えようと自然と考えが向く。もう、いないのに。


いないことを自分に言い聞かせている。

わたしの頭はあとどれくらい彼の不在を実感したらもういないのだとわかってくれるだろう。

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