怒ることができない話
喜怒哀楽というけれど、最後に怒ったのはいつだろう。
言葉には怒りを含めることはあっても感情としての怒りを感じることはほぼない。覚えていない。
いつだかサークルの運営かなんかでもめた。明らかに相手に非があった。相手が良かれと思ってした言動が皆を困らせてしまぅたのだった。
そういう時ふつうは怒るのだろうか。なんでそんなこと言うんだよ、うざい、邪魔すんなよ、みたいな反応をするのだろうか。
私はというと特に何も感じないままに、ただああ上手くいかなかったのか、と思う。きっと相手には良かれと思った意図があったのだろうけど、それが周囲とずれていたんだろうな、と。
ではどうすれば上手く回せたのだろう。私ができたことは事前に裏をとっておいて相手と意見をすり合わせる場をもつことかな。今のサークルの現状を理解してもらえてたらこんな発想は出ないだろうから、相手に理解してもらうこともまず必要かな。相手と認識の相違があったことに気づかなかった。ミスったなぁ。。
と考える。
最終的には気づけなかった自分のせい。全部自分のせいにする。
全て原因を自分に落とし込んで反省する癖があるのだ。
環境のせいはその環境を選んだ自分のせい。
他人のせいは他人にそうさせた自分のせい。
不運なものはしょうがない。
環境や他人を変えることを諦めているわけじゃない。むしろ反省して次回があるなら変えようとする。次に活かすことを考える。
ただそうやって自分に原因を落としてばかりいることで、周囲に対して怒ることができなくなった。怒るってなんだっけ。何がそんなに不満なんだっけ。。
本当は自分が傷ついていたり、不快に思ったことをきちんと怒りとして表現して周囲に知らせるべきなんだ。けれど、その元となる怒りがわからないのだ。怒った風を演じることなら時折あるけれど。とても下手でやはり強くは言えない。。
相手に期待していないというのもあると思う。最初から他人は他人と割り切ってしまう。何も期待しなければ傷つくこともないし。
冷たい人という風に映ることもあるでしょうね。
そうして傷つけられても不快なことをされても、なんとなく受け流すだけで自分の中に溜め込んできた。理想的な人間は傷つかない。自分さえ傷つかなければ全てうまく回ると思ってそうしてた。
本当にそうだったかもしれない。実際自分以外はうまく回っていた(いる)ことが多いように思う。ただ、人の心は傷つくようにできていた。
こうして溜まった傷に耐えきれずに潰れてしまったのがいまの自分やかつて学校に行けなくなった自分なのだと思う。
だから、もう繰り返さないためにはどうするか。コミュニケーションの手段として怒ることができるようになりたい。
感情どうこうはよくわからない。ないもんは無いしなぁ。。
技術として、怒るべき時に怒って、嫌なことは嫌と伝えて、自分にとって居心地の良い環境に近づけてゆくことができたら、何か変わるのかも。
そんなひとつの答えにたどり着きました。
今度カウンセリングで話してみるつもり。
(どっちがカウンセリングしてるんだか…笑)
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