徒然なるままにささみの本分を考える

つれづれなるままに、 日暮れにスマホにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくりたる。

あやしくもものぐるほしくもありません。
元ネタは兼好法師です。教養はないのでググりました。

ちなみにささみとは中の人の本音の部分のこと。私であり、私の一部です。


騒がしい昼間を終えて、夜ひとりでこうしてTwitter見たりブログ書いたり、いろいろ好きなことしているこの時間が至福の時です。忙しかった頃はこういう時間すら削られていっていた。ひとりになりたくても、常に思考に誰かが入ってきた。ラインし続けてたり、日中のことを心配したり。


足るを知る、と言ったのは老子でしたっけ。
ないものねだりをするのではなく、今あるものにこそ目を向けよという言葉らしいです。Eテレでやってた。不正確だと思うけどゆるして。

今の生活に満足はできていない。不満はいくつかある。なんとなく幸せとは言い難い日々だと感じている。そう感じてる自分がいることは認めます。
一方で、現状が恵まれた暮らしだということも理解していないといけません。現に、かつてなかった余裕を享受できている。この夜のスマホタイムだけとってみたら、かつてより幸せじゃない。1日のことを思い返して、ゆっくり先のことまでも考えられる余裕はもうかなり長いこと失っていたように思います。そうそう、満月の下反省会(満月の日にひと月を振り返ること;過去記事参照)ができなくなったあたり。




こうして自分にいまあるものに目を向けることが前に進むための一歩にならないかなと、うまく論理立てて説明はできないしないけれど、良い方向に向かえるという根拠のない自信があります。

考えすぎは精神によくないとしても、考えずにはいられない人間は、考え抜くことによってしか救われない。虚しさにまっすぐ向き合うことをしてみたいのです。


生きることは目的じゃないからね。生きる以外に面白いこと、やりたいこと、気になること、あるでしょう。そういう生き方をしたいし、そう生きている人にあこがれる。

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