いのちを大切にすることの話

アイガモ農法ってのがあります。
アイガモのヒナを飼って、水田に放って雑草を食べてもらい、水を抜く頃には連れ帰って秋頃に食べる。半年かそこら飼ったアイガモを最後は鴨鍋かなんかにしてしまうんです。

私はこれやろうって言った。
家族にはありえない、って反応された。飼ったカモたちを殺して食べちゃうなんて酷だって。
私は、酷なのは私たち人間にとってそう感じられるのであって、カモたちからしたら悪くない境遇なんじゃないかと思った。それに、草とりは人の手じゃキリがないし、鴨鍋は美味しい。鳥類はやったことないから腑分けもしてみたい。

こんなにメリットのが大きいのに、酷だという一点で跳ね除けられたのは癪だった。普段食べてる鶏肉のことをなんだと思っているんだ。他人の手にかけられているならそれでいいんだ。ふーん。




魚釣りをした。元気な子をバケツで持ち帰ってしばらく観察していた。体の構造や、外部刺激への反応、行動なんかをよくよく眺めた。でも、流石に数時間と持たずに死んでしまった。かわいかっただけに、残念。最後まで生きててほしくて分からないなりに世話をした。でも死んじゃったね。
その後、捌いた。正確には肛門から腹側を切り開いて丁寧に内蔵を取り出して観察してみた。解剖ですね。これは発見が多くて楽しい。
そして、食べれるお魚なので内蔵だけ取り出して、あとは塩焼きで食べました。美味しかったです。とても。

しかし……
しばらく可愛がって、数時間だけど飼った魚をこんな風に扱うことが家族には理解しがたいようだった。私としては、これ以上ないくらいにその子のことを大切にしたつもりだった。どうして?そのまま火葬しろとでもいうの?殺すことが分かっているなら可愛がってはいけないの?
生きている間はその生を見つめ、死んじゃったら解剖して食べれるところは食べる。骨格標本つくってみるのもいいよね。この上ないくらいに大切にお魚の命を扱えたのではないかと思ってる。


人は、死んだら多くは火葬されてしまう。
人肉は食べれないから、せめて解剖のための検体として提供したり、できるなら生きている臓器は移植の可能性を検討したらいいのにと思う。

亡くなった命の遺体がそんなに尊いか?
死んで物体となったそれに、そんなにも人として、生きものとしての価値を見出すのか?


遺体を見てはじめてその人の死を実感できることもあるでしょう。それが必要な遺された人たちもいる。
けれど、たとえば遺骨になったその人だったものを後生大事にしたり、お墓参りをしたり、そういうことにあまり価値を見いだせずにいる。

だって、死んじゃったらもう戻らないのだから。

どんなに暮石の前で手を合わせても何もないよ。なんならお墓なんていらない。わたしの死後の身体はほかの生きている命に捧げたい。煮るなり焼くなり拝むなり好きにしとくれよ。


亡くなった人の残骸を抱きしめていたい人はそうしていたらいいと思う。
けれど、亡くなった人がそのまま火葬されてしまうことやお墓参りする風習が歪だと感じるわたしも確かにいることをここに記しておきます。


この新盆に、亡彼の遺骨に手を合わせることはしませんでした。それでもあの人への気持ちは確かだし、それで充分と思っています。
(ご遺族との関係も難しいところだし)


ヒトだって、アイガモだって、うちのじゃじゃ馬わんちゃんだって、みんな生きものなんです。いつか死ぬんです。そして沢山の生と死の上に今の私たちの生活が成り立っている。

いまは、人の命だけが重すぎると感じています。

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