夏空の下 憂いの季節
いつも、耐えきれずに、目覚めた布団でうずくまって泣き続けていたのはこんな夏の日のことだった。
2年前の夏は前回の記事で触れたような葛藤、それから絶望感や孤独感を抱えていた。
1年前だって壊れてゆく身体と心になす術もないまま、ただ生きていけないという思いが生命力を奪っていった。
死別の苦は別としたら、ほかのつらかった記憶は夏と関連している。
どうしようもなく無力で、希望などなくて、孤独で、絶望していた。酷暑が体力を奪い、食欲もなくなった。ただでさえ寝苦しくて寝不足な季節なのに、通院は中断してたから満足に眠れず過ごすしかなかった。晴れてじりじりと照りつける太陽が恨めしい。足どりは重くなるし、ひどくだるい。
そんな自分を責めすぎずにいられたから、いまここでこうして言葉を綴っていられるのかもしれない。
ある場所に行くとそこでの記憶が呼び起こされるように、ある曲を聴くとそれを聴いていた頃の感覚を思い出すように、夏空は私にとってはつらかった時間を連想させる。
夏は好きな季節だった。
鮮やかな街や、樹々や、花を見るのが好き。
さわやかで軽い服装が好き。
海が好き。泳ぐのはもっと好き。
夏の夜の散歩は夜風が心地よい。
一番好きだった季節がいつのまにかつらい二年間に塗り替えられてしまっている。
鮮やかな景色はかえって空々しい。
汗でベタつくのは不快だ。
海は、いつか死んでわたしが二酸化炭素と水になったとき辿り着く場所だなぁと思う。
死に場所には選びたくないな。
同じものがこうも違って映った。
毎日をやり過ごすことばかり考えていた。わかってもらいたかった。孤独を脱しようとした。……けれど、誰も助けにはならなかった。ひとりのまま、自分の信念であるところの科学を一度認めてほしいという、それだけだったのに。
私は持て余されていたのだと思う。
そして、自らその場を去ることにした。
これで決定的に挫折を認めたことになった。
今年の夏はどんな夏になろうか。
昨年は、亡彼との乗った最期のステージとなる演奏会の記憶が焼きついている。嬉しそうに、照れくさそうに皆に囲まれる彼の笑顔。
憂うつな季節をどうやり過ごそうか。
もうすでに夏バテし始めています。
(十二国記に影響されたタイトルの付け方になってしまった)
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