思考のたれ流し-水出し紅茶-

ざわざわ
扇風機
びゅーっと風

水出し紅茶
カフェインを摂っても胃は荒れないだろか。
意外と出てくれてる
きれい、かなぁ

風の万里を読もうと手を伸ばすも
なんか気が向かない。
楽器弾くのも違う
なーんにもしない。

放っておくと考える。
考えることが本分。
合宿が心配なこと、書類手続きしてないこと、本の返却期限を過ぎていること、気分がふさぐ……というか、うまくいえない。錆び付いてる。

水出し紅茶のタグがパタパタ
チッチッチッ
また細かく貧乏ゆすり

空っぽに近い
考えだすとあふれる
蓋したらなんもない

ちょっと開ける。


誰も皆、曲げることのできない自分を持っているだろか。
わたしにはある。
納得できないと動けない。
科学的なものの考え方がわたしの宗教だと思っていた。
不合理なことを自分の手でできない。
道理を曲げることができない。

だいたい、お金のために世の中まわってるらし
お金のためになんかする
なんかするほうが目的だったはずが、どうしてお金のためになんかするようになったのか。
いつから。
誰がそんなこと決めたのか。

なんかするとは労働のこと


働きたくないのではない
お金に興味がないという方が近い。
成したいこと、やりたいことがないのも似てる。 

タテマエをもって接しないと?
大人として?
社会人として?
迷惑かけるな?
誰様やねん




どうしても一度死を考えたことがある身だし、生きがいのない崖っぷちにいる身だし、
そもそもうつだし。

死ぬことと生きることを天秤にかけると前者のほうがマシと思える。何人もの人が、生きることに苦しみしかないなら死のほうがマシ
生きてるのは惰性
そんなこといってた。

誰がこれに説得力のある回答ができるのか。

できない。


生きることに労働が必要で、労働には苦痛が伴い、かつ多くのお金は私を幸せにはしない。
どうして労働が国民の権利であり、義務なのか

そんなことより事故を装って死ぬ方法を考えるほうがよっぽど簡単だと思う。
それに、こちらが正しい、こっちにしようと決めたら突き進むのは楽しいものだ。


水出し紅茶が濃くなりすぎてる

私は自分を肯定できる。
生きているに値する人間だと思う。
能力もあるし、分別もある。
好奇心は強い。
問題解決が得意。
コミュニケーションが苦手と思ったことは少ない。つまらない飲み会は行けないけど。

自信過剰

過剰なくらいのほうがやりやすいことも多い。卑屈は美しくないし。


こうものうのうと他人の稼ぎで好きに生活しているだけの人間は、多くの場合憎く映るんだろう。

どうしても、曲げられないのだ。
己の納得できない、道理の通らないことをしていたら、心が死んでいった。

何のためにはたらくのか。
私がはたらくとしたらなんのためなのか。

それとも、日々生み出しているごみに価値でもつくんだろか。


教え諭してくれるひとがほしい。
分別はある。
どうか、どこかへ
私を活かせる場はどこかにあるのだろうか。


水出し紅茶。

出張先で出されたコーヒーを面倒だから断らずに飲んだら、動機、不安感、利尿作用、頭痛いろいろ出てきてしまって、
けどそれは黙ったまま仕事した。めんどくさいから。
カフェイン苦手なんです、って主張するのも、そう覚えてもらうのも、そんなキャラとしてレッテルが増えるのもめんどくさい。

やけになってカフェオレおかわり自由の某ドでくらくらになるまで飲んで、終わらない論文紹介の準備して、終電で帰った。
自転車をこぐ足がすいすい動いた。
朝までかかって終えて、くたくたで、ぼろぼろだった。
そうまでして読んでみた論文はちっとも面白くなくて。

もとはといえば、来客対応のときにコーヒー苦手なんです、を言わなくて済むように、コーヒーを飲みだした。苦手ではなくなった。
代わりに諦めてしまったものは
本当は諦めちゃいけなかったのかもしれない。



やけ酒ってあるじゃない。
私にとってはやけコーヒー。


んで、この水出し紅茶も、自分に飽きた私が用意したやけ酒のようなものだろな

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