十二国記のざっくりとした感想文-物語を通して描きたいものは何か

まだ、途中なのだけど。
アニメ視聴済み、小説は『黄昏の岸 暁の天』まで読みました。まだ飲み込めてないことも多いはず。でもこの疑問は疑問のまま続いてゆきそうなので、書くことにしました。

作品は小野不由美さんの『十二国記』シリーズ。


十二国記という作品に出会ってしまってどのくらいかな。最初はアニメの梁邦彦さんの音楽に惹かれ、そして物語に惹かれ、人物のいきいきとしたところに惹かれ、小説を読んでからはこれが中国風なのかなぁと素人ながら感じとりました。
使われている言葉や言い回し、名前が音読みなところ、漢詩も出てくる。故事のようなこともある。揉め事は道理の通るほうに軍配が上がる。世界は仁道によって統べられる。


まっっったくのド素人ながら、こんなにも読みやすく伝えられるものか、それも物語としてもとても鮮やかに。ぐいぐい惹きつけられてゆく。
なんだかとても面白いものに出会ってしまった。


詳細な感想文を書いていたら大変な分量と研究を要するので、個人的に気になったところをざっと書いてみようと思う。

(どうでもいいが私のこのブログはほぼ一発書きの後戻りなしだ。間違いは指摘してもらえると、後で恥ずかしくならなくて有難いです。)


今、アニメは観終えて、小説は『黄昏の岸 暁の天』まで読み終えました。『魔性の子』も最初に読んだ。謎解きは(廉麟のほうは根拠がなかったものの)当たってうれしかったです。笑

最初にアニメを観た時点で気にかかっていたのは、この一連の物語は何を描きたいのだろうかということ。十二国記という話を通して、何か大きなテーマがあるのか、あるいはないのか。あるとしたらそれが何なのかがわからなくて、掴みどころがない印象を受けました。

アニメだと風の万里の初勅のシーンで終えれば…そうでなくても『乗月』できれいに纏めていればよかったのに。陽子のストーリーとして内乱の鎮圧までの成功という話にしてしまうのではなく、続きに続いてゆく。…なんで?
あの初勅回の演出は鳥肌ものだった。なぜ、あれでお終いにしなかったのだろう…?と。

その後、小説を手にとってみたらやはりアニメとは似て非なる作品なのかなと思えた。
天帝とは何?誰?どうして妖魔は現れるのか?妖魔と妖獣の違いは何によって生まれる?里木に人が生るとしたら、性差はどんな形であらわれるだろう。半獣の存在。蝕によってあちらからは人が流れ着くけれどこちらからいけないのはなぜ?あちらではこちらの者はゆらいでしまう、どういうこと?
十二国の世界について、小野さん(作者)が創り出した世界のことが一層気になる。いや、疑問を抱かせておきながら答えをくれない。
……もどかしい。


とはいえ、作者は(この物語は)何を云いたかったのだろうという疑問は残ったままでした。
分からないながらに、大きく3つの考えが浮かんでいます。


まずひとつめ。各話の中には、人間にありがちな摩擦や間違い、感情、反応…様々に教育的な内容が含まれている。これらって、もしかして中国思想史を漁ったらどこかで出てくるのだろうか。教養がなくてまったくどこから手をつけて良いかすらわかりません。
でも、これらの各人の成長や過ちは末節にすぎなくて、その根幹に何があるのか……もしかしたらある考え、たとえば仁の教えを説くことが目的のひとつなのだろうか。ということ。


ふたつめ。描きたかったのは十二国の世界そのものなのではないか。ファンタジーって世のしくみから全て創り出してしまうこともできて面白いけれど、現実から離れるほどにその整合性をとることが難しくなるように思える。でも作者はこれだけ現実離れした世界の中で、現実(蓬莱;日本)とは違うもう一つの理想を描こうとしているんじゃないか。理想の世界というよりは…整合性がとれているもうひとつの平衡。


みっつめは、何もないという案。描きたいものなんて、物語の根幹にあるものなんて最初から用意されてはいない。意味付けようとすることはできるけれど……無理にでも何か意を汲もうとしてかえって作品を歪に捉えてしまう気がする。だから、この案も念頭に置く必要がある。


これらをぐるぐる練りつつ、わからないからこそ惹かれてしまって読みきりそうです。

生きものの生きざまが…生殖や遺伝といった概念がないとしたら、人も含めた生きものはどのように生きるのだろう。それがみたくて読んじゃう部分も大きいかもしれない。



最後に…
私はどうやら景麒贔屓なので、誰か照れ景麒とか困り景麒とかイケメン景麒とかください(乞食)

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