人の死を経験するなんてことはありふれている
ばあちゃんの友達が死にました。
いつも通り表敬訪問と称して憎まれ口を叩かれにお茶しに行って、またこーよ、なんて言われて帰ってきたのが前の日だったらしい。翌朝目を覚ますことはなかった。
祖母の年齢にもなると、友人もご近所さんも、連れ添った配偶者もどんどん減ってゆく。
毎日のように通ってた友人が亡くなったにしてはなんだかさっぱりした反応をしている祖母はどんな心境だったんでしょう?
祖父が亡くなって、周囲の人が少しずつ亡くなってゆく。祖母からしたらどんなにつらい数年間かもわからない。
それでも変わらず悪態をついたり、まったくなあなんてその人のことを話す祖母を見ているとすごいなあと思います。
傷ついていないわけない、つらくないわけないし、明らかな心因性の変化もある。
それを親戚やら近所やら、誰かに話しまくり心配されせわしなくしている祖母。
つよいなぁ。
そうやって色んなことを乗り越えて生きてきたんだろなと思いました。
私にとって先輩の死はとても大ごとだった。
けれど、世の中そんな出来事はありふれているんじゃないかしら。
自死であろうと、病死、事故死であろうと。
それぞれやりきれない思いも悲しい思いもする。
つらい死を経験する年齢が少しばかり早かったのと、自分がしんどい時期に重なってしまった。それだけの話だ。
私が生きることを放棄する理由に先輩の死を使うのは少々筋違いだろうなと思い至ります。
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